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全国ラボテューター通信2011年4月に書いた記事を

東北 山崎智子  

福島県郡山市に住む私の家も東日本大震災の揺れはものすごく,ほとんどの物が落下してきましたが,大きな被害には至りませんでした。電話,ネットがつながりだしたとき,とにかく全ラボ家庭の無事を確認。ただ,10年前に海辺の浪江町に転居したOBの家のことが気がかりになっていました。  すると,4日後にラボ修了後も交流しているOG家庭から「Sさんは親戚宅に避難しています。家は津波で流されなにもかもなくなってしまったそうです。想いがこもった子どもたちのたいせつな写真も,大好きな集めた本も…」と連絡が入りました。Mちゃん は,10年前の中1のときにニューハンプシャー州へホームスティしました。ご両親は既参加者の準備を見ながらわが子の番を楽しみにしていました。「たくさんの写真を撮り,どれもこれも貼りたくて選ぶのがたいへん!」とうれしそうに手伝っていました。そのアルバムの想いはホストファミリィにもちゃんと伝わり,ステイ中,毎晩アルバムを囲みながらMちゃんに英語で一つひとつ質問したそうです。それに答えようとどれだけ辞書をひいたことでしょう,帰国後に見せてもらった辞書はめくれて倍にふくれていました。「私はいま,世界一幸せな女の子です。お父さん,お母さん,ありがとう!」というステイ中の彼女の手紙に,お母さまは感激されました。また3年後の受入れのときには,同じようなアルバムを双子のホストシスターが作ってきました。そのようなたいせつにしまっていたすべての物が一瞬で流されたのです。  Mちゃんは「文学部は就職がむずかしいけれど,私は物語が好きだから」と難関の大学院までいき,今年のお正月には,春から高校の国語の教員になることを報告してくれました。S家の年賀状には「私たち家族にとってラボはたんなる習いごとのひとつではありませんでした。子どもたちにとってもうひとつのホームです」と書かれていました。  山崎パーティからの国際交流参加者は50名を超え,最初のときからずっと,郡山駅で「ひとりだちへの旅」の見送りを続けてきました。壮行会,見送り,帰国報告会,参加者の文集と,大半のご家庭が見守ってくださり,参加者個人の体験ではなくパーティみんなの体験になっていると思います。駅では「みんなで子育てをしている気がしますね」とお母さま方の声。  今回の巨大地震は,多くの人びとの生活の場を一瞬にして奪いました。人の力がいかに無力かを思い知らされます。それでも,立ち直るのも人びとの力でしかありません。地球規模の協力が必要です。そのためには多様性を認め,尊重する教育こそが最大の鍵です。全国からも海外からも多くの励ましや支援が寄せられています。Mちゃんにも励ましのメールや思い出の写真などが,ラボ家庭やOBたちから送られてきています。東北支部の事務所に、月壇中学校の生徒からの応援メッセージに「大きな被害の前にもっと強くならなければなりません。一緒にがんばって困難に克!」とありました。地球規模で人類が手をとりあう必要があるこれからの時代,青少年の国際交流と異文化理解の重要性はますます高まることでしょう。  大震災,津波,頻繁な余震,原発の放射性物質の放出とまだまだ脅威は続いています。犠牲者のご冥福をお祈りするとともに,一刻も早い救援と復興を願っています。 (85年開設 福島郡山地区研)

3・11から 振り返って

福島の問題は、目に見えない放射線への不安ですので、自己責任で、気にするか、しないかが大きな考えの違いになります。
ここに住んでいると「見ざる、聞かざる、言わざる」になっていきがちです。本当のことが知りたいので、ときどきネットで調べたりしています。でも、判断が難しいです。
1ヶ月前に春休みに沖縄に子ども達と「保養プリジェクト」で行ったときは、自主避難者たちと話をしていましたから、本音で深刻な話を聞けました。沖縄の人達は、親切で親身になって考えて下さいました。
さて、3・11から思い起こしますと、私は郡山にいて、地震で壊れたものなどの後始末や不自由な生活の中で、でも、家族がみな無事だったことに安堵していました。
主人は相馬勤務でしたので、津波で亡くなった人を探したり、避難所の生徒さんを訪ねたりしていました。福島の実家は、家を失くした相馬の人達がしばらく泊まっていました。
4月は、福島市の孫(小学生)は学校がしばらく休みになっていたので、共稼ぎの両親に代わって、私が一緒に過ごすことにしました。
この時点で、私はまだテレビ報道を信じていました。「メルトダウンではない」「今すぐ、健康に影響はない」など。
活発な男の子の孫とずっと家の中で過ごすとき、気分転換に、一緒に犬の散歩に外に出たのです。子どもは、屋内に閉じ込めておかなければならなかったのに関わらず・・・。1回だけでしたけど。
ラボの本部からは、東北は4月は全員休会の措置を取る、と連絡がきていましたので、全家庭の安否を確認し、その連絡をしました。
5月の最初のラボの日に、県外に転居や避難中、祖父母宅に子どもだけが避難などがあり、休会延長や退会の連絡をたくさん受けました。
この頃、ツイッターで孫正義さんが「福島のみなさん、困っていることはありませんか?」と投げかけていたのを知り、書き込みました。
また、私の友人が千葉の息子さんの所に避難した後、5月に戻ってきて「会津を巡っていたら、使用されていない東北電力の建物が目に入った。避難しない?」と誘われました。
東北電力に交渉し、現地を見せてもらい、ここに子どものいる家庭に呼びかけて、みんなで住むには、どうすればいいか?しばらく考えていました。固定資産税と地下ボイラーを修繕して動かすコストがネックなのと、もちろん、買い取り価格・・。
6月に孫さんからメールがきました。郡山でのヒヤリング会開催(はまつホテルの広い会議室をブースで仕切り、一人45分ずつ)
私は福島県内でも放射線量の少ない会津に避難することは、郡山からの通勤可能な箇所であれば親は仕事を続けられるので、子供を疎開させる手助けをお願いしたい、ことを話しました。
7月:孫さんから連絡がきました。「全国から県外避難受け入れができる自治体に集まってもらい説明会を開催」
福島の娘と一緒に行きました。そこで、県内避難ではなく、全てを捨てての県外避難しか選択肢がないこと、それほどに深刻な事態であることを理解しました。
娘は受け持っている学校の子供達と3月の学年末でお別れしたい、と言いましたが、孫さんの出した支援は1月までの転居でしたので、2学期で仕事を終え、冬休みに沖縄に避難していきました。
このときに「チェルノブイリの架け橋」の野呂美加さんと話をすることができました。チェルノブイリの子ども達を1ヶ月間ずつ、北海道で保養させてきた経験が、子ども達の身体の回復には効果があることを知りました。
夏休み1ヶ月間は、できるだけ遠方に保養に出しました。3年間でラボの子ども達も全国や海外からの保養プログラムにお世話になりました。

少しづつ、整理して書いていこうと思います。では、また。

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